「春の惑い」 10年の空白 その沈黙の重み
梁木靖弘(演劇・映画評論家)
中国第5世代の監督で、だれがもっとも信頼できるか。「さらば、わが愛―覇王別姫」以来、華麗なスタンドプレーに徹するチェン・カイコーでもなく、数々の映画賞をかっさらった、ハングリー精神と反骨の人チャン・イーモウでもない。ぼくにとっては、この10年間沈黙を守ってきたティエン・チュアンチュアン(田壮壮)である。
前作「青い凧」(92年)は、文化大革命のもっとも誠実な魂の記録として、かけがえのない作品である。作家として自己をつらぬいたために、政府のブラックリストに載せられ、映画を作れなくなってしまった。監督としてもっとも充実するはずの40代に、ひとつの作品も残せなかった。その空白の重さ。あとのふたりが華やかな話題作を発表しつづけるあいだ、ぼくは、ティエン・チュアンチュアンの沈黙に思いをはせていた。
新作「春の惑い」は10年の沈潜を反映している。社会や政治など、外へ向かうものを注意深くそぎ落とし、魂の陰影を凝視する。5人だけの室内劇。驚くほどきめ細かな心理模様は、晩年の夏目漱石のようだ。没落しつつある地方の名家。病身の若旦那と、献身的な妻。ふたりのあいだはよそよそしい。そこへ、旧友が訪ねてくる。10年前、彼は結婚前の妻と恋仲だった。秘められた情熱の波紋が、こころの水面に立ちさわぐ。
監督の失われた10年と、主人公たちの10年。愛すべき人間たちは情熱の葛藤の中でもがき、失われた時間の重さを思い知るばかりだ。寡黙な映像に、人間の切なさが張りつめる。崩れかけた城壁に、枯れ木が一本。その枝に女主人公のハンカチがからまっている。個人の情熱も、結局はそのハンカチにすぎない。「青い凧」では、凧が木の枝に引っかかっていた。歴史と人間の関係を極限まで凝縮させた、いかにもティエン・チュアンチュアンらしい風景である。
カメラはゆっくりと移動しつづけ、顔に直接、光があたることはない。美しく計算された陰影のなかに、絹のように、つややかでなまめかしい心の光芒がゆれる。繊細にして、豊穣。諦念と情念が混然一体になった、まぎれもない傑作。
[
朝日新聞2003年7月10日夕刊《梁木靖弘の自由席》
]
この記事は朝日新聞社及び梁木靖弘氏の許諾を得て転載しています。無断で転載、送信するなど、朝日新聞社及び著作権者の権利を侵害する一切の行為を禁止します。
このホームページの内容の無断転用・転記を禁止します。